「つぎー、三二七番でお待ちの方ーぁ」
カウンターの女性が間延びした声で告げる。
その声に促され、立ち上がったのはくたびれた着物を着た老人だった。背中を丸めたまま、カウンター前の椅子に腰掛ける。
「えーと……今日は再就職先をお探しだということですけどぉ」
「はい……もと居たところに居られなくなりましたもので」
「大変でしたねぇ、いきなり埋め立てられてしまったんでしょー?」
あまり大変とは思っていない口調で女性が言う。現に話すときもこちらの目を見てはおらず、老人がここにやってきた時に記入させられた書類をぱらぱらとめくっている。
「はぁ……」
老人は曖昧に相槌を打つ。どうにもここは落ち着かなかった。まるで最近の人間が建てるおふぃすびるとかいうやつにそっくりだ。この建物自体がなんだか強烈な皮肉のように感じられ、老人はため息をついた。
「やっぱりぃ、急には再就職先はみつからないですねぇ」
また別の書類をめくりながら女性が答える。
「やはり難しいでしょうか」
あんたのそのいちいち語尾を伸ばす癖を直すのも難しいんでしょうか、と老人は頭の中でだけ考える。
「水神でしょう、近頃はどこの川もしょっちゅう埋め立てられたり、改修されても社が再建されてなかったりしますからねぇ」
今日もここに来る水神さまはあなたで三柱目なんですよぅ、とため息をつきながら言う。ため息をつきたいのはこっちだ。やはり頭の中だけでそう考えた。
「いちおう水神枠で登録なさっておきますかぁ?川が新しく出来たりした場合には、その順番で優先的に配属されることになりますけどー」
「あっ、そっそれお願いします」
「いまなら五十二柱待ちですよー」
「………」
何年先の話になるのか。老人は気が遠くなりそうだった。
ふざけるなよ。そんなに川が新しくホイホイできてたまるもんか。老人は頭の中で毒づいたが、やはり口に出すことはしなかった。出しても良かったが、そう考えたら懐かしい自分の住んでいたあの川のことが思い出され、不覚にも涙が出そうになったからだった。
年を取ると涙もろくなって困る。
「どうしますぅー?」
「………。少し、考えてみることにします……」
じゃあこれ、その際の登録書類ですからー、そう言って女性が差し出した紙切れを受け取って、老人は席から離れた。
部屋の中は相変わらず騒がしく、ずらりと設置された椅子もほとんど埋まっている。周りを見渡して今日何度目とも知れないため息をついた老人は、その喧噪の中に身を投じていった。
昔、ここ日本は神の国だった。現人神が統治していたという意味合いではない。その名の通り、総ての物に宿った八百万の神々がこの国を守り、そして人々もそれをよく諒解していた。
しかし、今やそんなものは迷信盲信のたぐいという呼ばれ方しかしない。人々の信仰は薄れて神社は荒れ、そこかしこにあった社はいつのまにか姿を消し、山は削られ、川は埋め立てられた。老人の宿っていた川もそうだった。老人は人間が好きだったが、自分を埋め立てたその上に、人間をもっともっと住まわせるため、長年そこを守ってきたのではなかった。親しんだ住処を追われ、当てもなく放浪するうちに、似たような境遇の神からここの存在を知ったのだ。
ここは、老人と同じ、居場所を無くした神々で溢れている。
「どうだった?」「どうでしたか?」
同時に声をかけられ、老人ははっとした。頭の禿げ上がった袈裟を着た男と、大柄な着流しの男が目の前に立っていた。
「いやはや……難しいね。水神は五十二柱待ちだそうだよ」
彼らとは老人がここへ来てすぐ、書類を書かされた時に行き会った。禿げた男は道端の地蔵に宿っていた道祖神。大柄な男はこれまで名のある刀に憑いていた刀神であるらしい。どちらもやはりもと居たところを追われてここに来たのだ。
「俺のところは三柱待ちだ。ただ刀に神が憑ける程になるまでには相当な年月が要る。就職口自体が殆ど無いって訳だ」
「わたしのところは百八十三柱ですって。近頃とんと同僚を見かけなくなったと思っておりましたが、なんのことはない、ここに居たのですねぇ」
内容だけ聞けばまったく明るくない会話をして、互いに笑った。三者は並んで椅子に座り、同時に深々とため息をつく。
「水神枠に登録しておかないかと言われたが、断ってしまったよ。あれじゃあ、いつになったら川へ帰れるのか判ったものじゃない」
「そうですか……」
「けど、登録もしないでどうやって川へ戻るんだよ。今の時代、空いてる川に勝手に憑いたりしたら問題だぞ」
だからこそこんな施設が出来たのだ。少なくとも百年程前ならば、間違いなくこんなところは必要なかったはずだった。
「疫病神さんとこなんかは、いいですよねぇ……」
しみじみ、と言った風情で道祖神がため息と共に言った。
「家だけはぼんぼん増えてるからな。憑くとこには困らないもんな」
刀神が感慨深げに言った。確かに、今の時代は彼のような神が憑ける刀そのものからして殆ど無いはずだ。
「やはり人の信仰は薄れましたが、まだまだメジャーですもんねぇ」
並んで座った三者は、またしても同時に、はあ、と盛大なため息をついた。
「なんだぁ、しめっぽいツラしてんなぁ」
後ろから急に道祖神の肩をぽん、と叩く若い男があった。
「やぁ、これは久しい」
道祖神の顔がにわかに明るくなる。だがすぐにここがどういう場だったか思い出し、声の調子を落とした。「……ここにいるということは、もしや」
「ああ。とうとう切り倒された。あの調子だと、山神の奴も近いうちにここへ来ることになるだろうぜ」
壮健そうな若者は嘲笑めいた笑いを漏らした。
「そうですか……」
道祖神は肩を落とす。比べて対する男が、あまり落ち込んでもいないよう風情なのが老人には気になった。
「なんだなんだ、知り合いか?」
刀神が割って入る。
「同郷だったのですよ。彼は村の神社の神木に宿っていました」
「だがその神社も、もう跡形もない」
感情の読めない顔でそう言うと、急に明るい顔になって言葉を継いだ。
「俺、これからはもう自由に生きるんだ。人間に縛られるのなんかもうまっぴらだもん」
「どういうことだ?」刀神が尋ねる。
「決まった場所を持たないってことさ。俺はもう木に憑くことはしない」
「だったらおまえ、どうやって生きていくんだ」
刀神が面食らったようにまた問うた。老人は若者の言葉にただ驚いて、何も言うことができなかった。そんなことを考えたこともなかったからだ。彼の言うことは魚がもう水の中には住まない、と言うのと同じことのように思われた。
「木に憑いていないからって別に死ぬ訳じゃない。万一また新しく神木が生まれたとしても、また長いこと同じところに縛られるなんて俺はもう御免だよ。これからは自分のためだけに生きるんだ」
大仰に手を広げ、ただ驚いて何も言えずにいる三者をぐるりと眺め回し、若者は満足そうに口を開く。
「今までの俺たちは自分で好きなところに行くこともできなかったんだぜ」
神社なり社なりに憑いた神は、その建物に縛られる。山神や水神はその土地に。同じ集落の内など少しの距離ならまだしも、人間が飛行機とかいう鉄の鳥で飛ぶような距離を移動することなどは、普段はできなかった。
「古くて頭の固い奴ほどこんな考えを嫌うがね。俺はもう、決めた」
そう言い切ったとき、やはり感情の読めない顔に、一瞬、深い疲労と諦めとが浮かんだように老人には見えた。しかしそれも老人が一度瞬く内にかき消えて、若者はじゃあな、と一言残すとその場を後にした。
「……たっまげたなぁ」
ぼりぼり頭を掻きながら刀神は老人と道祖神を振り返った。彼らはただ頷き返すことしか出来ない。
「……若い神に、近頃ああいう輩が増えているとは聞いていたが」
いまだ若者の走り去った方角を見遣りながら道祖神がぽつりと口を開いた。
「そういう神のことを、最近では二移都って言うらしいです」
「にーと?」
「ひとところに居着かず、居着こうともせずふらふらしてる神のことですよ」
「……どっかで聞いたことあるような」
刀神が頭を捻る。
「時代は変わったのだね。昔はそんなこと、考えられもしなかったというのに」
「それだけ深刻ということなんでしょうかねぇ」
もともと神々は、一年のうちその殆どを特定の場所から離れられずに過ごす。憑いている地域が近ければまだしも、水神と道祖神と刀神が一堂に会するなど、総ての神々が出雲に集う神無月以外では考えられなかったことなのだ。
「いまではここに居ない神を探すほうが大変ときてる」
「どこも苦しいですからねぇ……」
しみじみとこぼす。ああ、熱い御茶が欲しい、と老人は思った。
「けれど、ああいう連中はまだましかも知れません」
「どういうことだい?」
老人は尋ねた。もはや昔とは事情がすっかり変わってしまっていることは充分に判ったし、これ以上聞きたくない気もしたが、そう言わずにはおれなかった。
「そういや、あれだろ。こないだの地震も」
北の神々は気性が荒い。陸奥のほうの地神たちが、自分達の存在すら知らない連中が好き勝手に大地を荒らすのにとうとう我慢できなくなり、暴走した結果が先の地震だ。
最近はそういう暴走した神々による災害が増えた、と道祖神は言う。人が近頃の異常気象と呼ぶものは、その殆どが暴走した神の仕業なのだと。
「まあああいう連中は一部の過激派だけどな。ほとんどの神は、自信なくして落ち込むばっかだ」
再び三者が黙り込む。
今度は永遠に続くかと思われた沈黙を破ったのは、年若い少年の声だった。
「おーい、おっさーん」
三者が振り返ると、そこにいたのは年若い二人の少年だった。声をかけてきた少年は真っ黒な髪に漆黒の袴を、もう一方はまったく逆で、白い髪にしみひとつない真っ白な袴をまとっている。
「おう、双子の狐っこか。なんだぁ、おまえのとこもとうとうお役御免かよ」からかうような口調で刀神が声を張り上げた。
「残念だったな、社が新しく再建されたんでその申請だ」
黒髪に漆黒の袴を身にまとった少年がぴらぴらと紙切れを振る。視線のやさしい白の少年がぺこりと会釈をし、対の神たちは人混みの中に消える。
「あいつらは山奥の村のちっこい神社に住む双子の稲荷神だ。あそこは珍しくてな、まだまだ人の信仰が根付いてる。拝みに来るやつだって引きも切らないらしい」
「……そんなところもまだあるのですね」
驚いた道祖神が言う。老人もまた驚いていた。
「最近は近所のちびと面識が出来ちまったらしくてな。がきが沢山祈りに来るんだそうだ」
「……子供など」
川に遊びに来る子供など、もうとんと見かけなくなって何年経っていただろうか。老人は考えて、思い出せない自らに愕然とする。道祖神も同じ様なことを考えていたのか、
「……わたしのところへも、最後に子供が手を合わせてくれたのはいつ頃でしたかねぇ……」言って、遙か向こうにその時の光景が映るかのように目を細めた。
「……人とともに在るということが、どうしてこんなに難しくなったんだろうな」
出会ったときから始終豪快な仕草であった彼にも、やはり他と似たような疲労と諦めが浮かぶのを老人は見て取った。
「彼らのようなところは特別です。若い者たちの言うように、もう人間など放っておいて、我々は我々の暮らしを探すべきなのかもしれません」
どうしたって、神の在ることのできる場所は減るばかりなのだ。これからまた時代が変わることもあると、そう信じたかったが断言などできるはずもない。
「なんだかわたしのほうが神に祈りたい気分ですよ」
ああいう連中の言うことも判る。もう人間なんて関係ないと、関わろうとせずに住み分ければよいのかもしれない。
「そりゃ、そうなんだけどな……」
刀神が口籠もる。何か言いたげだが、言葉は継がれない。
「けれど、わたしは……」
ぽつりと、老人が呟く。
「やっぱり、わたしは人の側に居たいんだよ」
「……」
「……」
両側の二人が黙り込む。するりと勝手に出てきた言葉だったが、口に出した途端にそれは次第に暖かさを増して、老人の胸にささやかな光をともした。
「……そうなんですよねぇ」
「……認めたくはないな」
道祖神は相好を崩してにこりとし、刀神は照れたようにそっぽを向いた。
人はもはや神の存在など忘れかけているのかもしれない。もとからあった物を長らえさせるより、無くなったところから再び作り出す方が難しいように、また神々がそこかしこに息づく時代がやって来ると言い切れる者など、神とは言いながら誰ひとりとしていないのだ。
けれどそれでも、未練たらしく人と関わろうとする、そんな神が在ってもいいではないか。老人は先までとは打って変わって、強くそう考えていた。もしかしたら自棄になっているだけかも知れなかったが、それももうどうでも良い気がしていた。
「……やっぱり、登録してくることにするよ」
水神は書類を携えて再びカウンターへと歩いてゆく。その背筋は、心なしか先ほどよりもまっすぐであるように、残された二柱の神には見えた。
「……」
「……」
しばらくその後ろ姿を眺めていた彼らだったが、やがて共に袂から一枚の紙切れを取り出し、互いに顔を見合わせた。ややあってどちらからともなく椅子から立ち上がると、老人の後を追いかけた。
タイトル 神様ハローワーク
名前 木田帖子
あとがき
思いっきり好きなものを書かせて頂きました。世界中で約二名にしかわからない伏線を張ってみたりもしましたよ。こんな感じの話を集めてシリーズものにできたら素敵だよな……(考えるだけですが)。